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甲子園で平常心保つため毎日200球バックホーム練習した嘉義農林(東スポWeb)




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<ネット裏 越智正典>が2度目の甲子園にやって来た1933年の第19回大会には二塁手で、35年の第21回大会には主将で捕手の今久留主淳、今久留主三兄弟の長兄は終戦で鹿児島に引き揚げて来たときは暮らせなかった。家もなかった。なんとか別府星野組にもぐり込んだ。

 50年、プロ野球が2リーグになり、毎日が星野組を主体に「オリオンズ、オリオンズ、東天の花、放つは猛打、地の星座よ…」旗揚げした。

 2リーグ分立、2年目の51年、福岡が本拠のセの西日本パイレーツとパの西鉄クリッパーズがやっていけなくなった。当然である。両球団が合併。巨人を追われた三原脩が「不信の座にいるより新天地で餓死したほうがましだ」と、新球団、パに加盟の西鉄ライオンズの監督に就任した。毎日が今久留主淳を手放すと三原が颯と獲った。背番号「1」。淳は送りバントとバント守備の名手だ。三原は遠征に出ると宿の女将に言って淳にお銚子を付けた。西鉄の若い選手は目をまるくして「バントは大切なんだー」。三原は凄い…。

 嘉義農林が4度目に甲子園にやって来た第22回大会の36年は2月に長嶋茂雄が千葉県臼井町(現佐倉市、54年に市町村合併)で生まれた年であるが、二二六事件があった。呉昌征はチーム構成上、中堅手に。

「近藤先生はボール袋をかついで来て右中間、中前、左中間にボールを撒きました。バックホームの練習です。わたしは走り、ボールをひろって本塁に投げました」。近藤は「バックホームにしても、キャッチボールにしてもこうしなければ甲子園では平常心で戦えないんだ」と亀田に語っている。毎日200球の猛練習というより慈しみと言えた。

 呉昌征は回想する。

「卒業するときは新校が出来るときでした。みんなで勤労奉仕で建てました」。68年2月、巨人の台中キャンプの帰途、新校を見学。それから南下し、ぐるりと回って呉昌征の故郷岡山を訪ねると、町中に聖誕花、ポインセチアが咲いていた。

 亀田は「100回」の夏に合わせて来日した嘉義農林(嘉義大)OB(会長蔡武璋氏)を呉明捷さんの次男堀川盛邦さん、お孫さんの東山礼治さん(北里大学の整形外科の先生)に従って迎えた。8月5日、一行は「KANO」のユニホーム姿で甲子園球場に。入場式を見学。

 台湾新生報。「天下之嘉義農林起動了台湾之棒球運動」「41位団員出席大会 場面熱烈非凡 56隊(56代表校)光栄到来甲子園」。

「甲子園歴史館」も見学。8月6日、愛媛県松山。中村県知事が出迎え、道後の千秋寺に近藤兵太郎先生の墓参り。野志克仁松山市長が坊っちゃんスタジアムで「東京五輪の台湾代表がここで事前合宿を行ってくれるのを望んでいます」と挨拶(愛媛新聞)。

 帰国後、蔡会長は「校長及全校8百多位教職員及全校1萬4千在校、同学、12萬多位交友」の祝福を述べ「是成功国民外交之旅」と結んでいる。 =敬称略=
 (スポーツジャーナリスト)


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